「2本あって、つまめれば、『箸』。そう思ってしまうけど、本当はもっと奥深いものなんじゃないかと気付いて、私は箸屋になったんですよ」
墨田区の東向島で江戸木箸をつくる大黒屋の創業者、竹田勝彦さんは、創業のきっかけをこう語った。台東区生まれの勝彦さんが墨田区で店を構えたのは、この地が古くから木箸の職人たちが集まる場所だったから。江戸の木箸には100年を超える歴史がある。大正初期から現在に至るまで受け継がれてきた伝統工芸だ。
勝彦さんは2022年で80歳。箸職人の道に入ったのは46歳のときだ。それ以前は食器問屋の営業として地方を外商で回っていたという。
「どんなに暇な時期でも、どんなに片田舎の店でも、箸だけは常に注文があったんですよ」。日本人は必ず箸を使う。20年間勤めた日々のなかで「箸って大事なもんなんだな」という気持ちが深まった。ただ、その想いが強まるほどに、勝彦さんの頭にはある違和感が浮かぶようになる。
「箸って毎日使うわりにあんまり意識せず、買うときも模様や色で選んじゃう。靴なんかは自分の足に合わせて買うのに、箸は無造作に選びがちでしょう。でも考えてみれば、箸はものを食べるための道具なんです。しかも自分だけの専用の道具ですから」
日々の食事に欠かせない道具だというのに、手に合った箸を選ぼうという価値観を持つ人は少なかった。そもそも当時売られていた箸には、道具としての握りやすさや、つまみやすさを追求した商品がなかったという。
「その頃の箸は、それこそ柄やデザインにこだわったものばかりで、形もだいたい丸か四角でした」。
その事実に疑問を抱き、箸屋として独立することを決める。当初は自分が思い描く箸を職人に依頼してつくろうとしたが、満足のいく箸は上がってこなかった。そこで自ら手を動かすことにした。とはいえ誰かに弟子入りしたわけではない。完全に独学での挑戦だった。
「もっと手に合う箸を」と考え、最初につくったのは「八角」の箸。四角い木地の角を面取りして八角形に削った。完成後は「つまみやすい」と好評を博したが、勝彦さんはそこで満足はせず、さらに試作を続ける。
「あるとき、箸って3本の指で動かすんだなって気付いて、三角の箸ならもっと指にはまるはずだと思ってつくってみました。でも三角は角が立つから、持つときに痛いと言う方がいた。それで次に五角形をつくったんですよ。そしたら今度は指がしっかり収まって使いやすいと好評で。だけど、それでも女性の手には当たりがきついという声をいただいて。じゃあ、次は何だろうって考えたら、『七角』しかないと思って挑戦したんです」
この七角の箸が大黒屋の顔となった。3本の指が七角形の面にスムーズに収まる。五角より角立ちが少なく、丸みを帯びた形状は握ったときの違和感が少ない。
「箸を七角に削るのはなかなか難しくて、満足のいくものができるまでに3年はかかりました」と言う。
大黒屋の箸はやすりの機械を使って一本一本、丁寧に削り出される。単純な木工機器のため角度などは設定できない。また定規や分度器などを用いることもない。すべては手が覚えた感覚だけで、先端のごく細い部分まで等しく多角形に削り上げていく。
奇数の形に削るのは難しい。五角の箸をつくったときも大変だったが、七角は「もはや360度で割り切れない角度だからね」と勝彦さんは笑う。
こうした試行錯誤の末に完成した五角・七角・八角の削り箸は2010年に「すみだモダン」の認証を受けた。大黒屋の店内には、ほかにも様々な箸が並び、その数は200種類を超える。
「手の大きさや指の厚さ、箸を握る角度など、使う人の手の特徴は様々です。だから職人から『この箸がおすすめですよ』という言葉は言えない。その人自身が持ってみて『これ、いいな!』と満足して使ってもらうことが一番です。そのためには長さも太さも重さも、色々用意しておかないと、お客さんが選べないでしょう。だって、ただの2本の棒じゃないからね」
大黒屋の江戸木箸は厳選された木材を使い、塗りではなく摺漆で仕上げることで木そのもののよさを生かしている。木材の種類は黒檀や紫檀、鉄木などが主に用いられるが、実際に手に持ってみるとそれぞれにまったく質感が異なることに驚く。これまで箸を選ぶ際に、材料の木の種類まで意識したことはあっただろうか。
大黒屋には刺身箸や納豆箸など、食べものに合わせた箸まで揃う。これは「箸は一膳で何にでも使ってしまうけど、それはおかしいなと思って」という勝彦さんの疑問から生まれたものだ。
「洋食だってスプーンとフォークを使い分けるのに。包丁も、どんなに素晴らしいものでも出刃包丁、菜切包丁とか種類があるでしょう。それが道具というものなんですよ。だから箸にもおいしく食べるための専用のものがあればいいなって。例えば刺身箸は先端が細いんです。刺身は軟らかいから、少々しなるくらい細い箸がいい。これで本マグロなんか食ったら最高ですよ」
食にこだわるのなら、箸にだってこだわって、満足のいく一膳を選んでみてはどうか。どれほど贅を尽くした美食を用意したとしても、その箸が使い心地の悪い割り箸だったなら台無しだ。日常の何気ない食卓だって同様だろう。選ぶ箸ひとつでその味までも変わってしまうに違いない。
「食べものは、食べる人においしいって言ってもらうためにつくられるでしょう。食べる道具である箸も、使う人の身になってつくらないと」。
理想の箸のあり方を追求し、様々なアイデアを妥協なく形にする勝彦さん。その探究心は枯れることがない。
「何年もやってきた職人さんでも、『箸なんてこれでいい』と思えば、それまででしかない。使う人にもっと満足してもらえる箸をつくりたい、と思い続ける気持ちがないと、新しいものは生まれない」。勝彦さんの言葉に、職人としての自負が滲む。
「うちの父親は桐の下駄の職人だったんだけど、下駄って必ず歯が減ってくるんですよ。そうすると歯継ぎといって、歯をまた接着剤で付けてあげるの。うちの父親は達筆な人だったの修理したときは必ず下駄の裏に『大黒屋』って屋号を筆で書いていたんですよ。だから私も商売をやることになって名前を考えたときに、ああ、『大黒屋』ならおめでたい名前でもあるし、父親がやっていた名だしなって」
父同様に達筆の勝彦さんは、江戸木箸の商品を包む和紙に自筆で「大黒屋」と添える。そして、父が下駄の歯を直してあげていたように、勝彦さんも箸の修理を受け付けている。
「先っぽが折れた箸は、一からつくるときみたいに全部削り直すんですよ。そこに漆をまた3度、4度と摺すり込んで、綺麗にしてお返しする。お客さんからは、『蘇っちゃった!』って感動の手紙をいただきます」
一般的には「折れた箸を修理する」という概念さえなかったかもしれない。それも手仕事で箸をつくる大黒屋だからこそできることだ。
「折れたら修理してまた使ってもらってってやってたら、新しい箸が売れなくなるじゃないって言う人がいるわけ。でもね、やっぱり気に入っている箸だから、直してまで使いたいって言う人がいっぱいいる。そういう方たちに喜んでもらえればいいなぁって思いながら、仕事をやっているんですよ」
Photo: Kasane Nogawa
Cooperation: Hearst Fujingaho