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歴史

墨田区が「ものづくりのまち」になったワケ――小澤 弘

2023.01.20
2021年に刊行した書籍『すみだモダン 手仕事から宇宙開発まで、"最先端の下町"のつくり方。』より、一部のコンテンツをご紹介。東京都江戸東京博物館名誉研究員・淑徳大学客員教授で、2021年まですみだ地域ブランド推進協議会理事を務めた、小澤 弘さんに、墨田区の歴史について伺った。

墨田区は1947(昭和22)年に北部区域の向島区と南部区域の本所区がひとつになって誕生し、「墨田区」と名付けられました。昔から広く人々に親しまれてきた隅田川堤の通称"墨堤"の呼び名の「墨」からと、"隅田川"の名の「田」からの2字を選んで名付けられたものです。

人類の歴史が始まった紀元前6千年頃は、今、墨田区があるあたりは海の底でした。その後、長い年月をかけて東京湾北に入江がひき始めて湿地となり、当時東京湾に流れ込んでいた利根川や荒川水系の河川の三角地帯として形成されていきました。

平安時代末期には墨田区の北西部は陸地化し、人が住むようになっていました。「寺島」や「向島」といった地名は、三角州が形づくる「島」状の陸地がいくつかあったことから起こったと考えられます。

平坦かつ水分が豊富な水湿地であったため、古くから農村地帯として発展しましたが、1590(天正18)年、江戸に入府した徳川家康が、開発に着手。土地確保のために低湿地の埋め立てを始めます。

そのとき家康が目を付けたのが「治水と水利」。もともと低湿地で水が豊富だった墨田区地域。それを利用して多くの運河をつくり、地方から江戸に入ってくる物資運搬に利用したのです。

1843(天保14)年の「御江戸大絵図」の墨田区部分。本所一体は江戸時代前期につくられた碁盤の目のような街区があり、そこに運河や家屋がつくられ、整然とした街並みとなっている。向島方面は農村地帯で、文人たちの寮(別宅)や、江戸市民の寺社めぐりや園芸の行楽地としても有名だった。出典:『墨田区史 前史』1978 年 扉図

すでに江戸初期には、この地域に大名家の蔵屋敷や町人地の開発も行われていましたが、そうした開発が一気に進むきっかけになったのが、1657(明暦3)年に起きた明暦大火でした。

本郷の本妙寺など3カ所からの出火は、隅田川を越えて向島へも飛び火したほど。江戸の約6割が焼失し、死者が10万人という大火災でした。

この災害を受けた幕府は都市「江戸」の再建に着手。防火対策を中心とした復興を目指します。その一環として建設されたのが、隅田川下流に初めて架けられた大橋(両国橋)です。

この大火では、御府内(江戸城を中心とした市域)の人々が隅田川があったため対岸に渡れず、多くの命が失われました。両国橋の架橋は、災害時における隅田川を渡る避難路確保のため、そして御府内の人口密集解消のための新たな居住地の開発という、ふたつの目的がありました。

さらに幕府は市中に広小路など火除地を設け、城下にあった寺院や武家屋敷、町家の御府内より外への移転を進めました。その移転先として選ばれたひとつが、現在の墨田区南部の「本所」でした。

葛飾北斎が描いた1830年頃の本所竪川・材木問屋の風景。葛飾北斎画『冨嶽三十六景 本所立川』すみだ北斎美術館所蔵

本所エリアの再開発では、排水と水運のための運河が整備され、今も残る竪川や横川など、多くの水路がつくられました。川沿いには各地からの物資荷揚げ場の河岸地、幕府の建築物資を保管する御竹蔵、そして御米蔵などが立ち並びました。

同時に、再開発で碁盤の目状に区画整理された本所地域は、運河に沿った川筋の道も整備され、大名家下屋敷や幕臣の抱え屋敷、町家などのある地域となり、江戸後期には「大江戸」の市域に含まれるようになります。

また両国橋東側には、明暦大火で亡くなった人の鎮魂供養のため無縁寺回向院が建立され、やがて諸国の出開帳や勧進相撲、夏の花火などのにぎわいの場になりました。

両国橋に続いて隅田川には永代橋、新大橋が架けられ、1774(安永3)年に大川橋(吾妻橋)が架けられて、人の往来がさらに活発になります。

そして、木母寺、三囲稲荷、亀戸梅屋敷、向島百花園などへ物見遊山で訪れる人が増えるにつれて、料理屋や土産ものを売る商いが起こり、向島・本所・両国地域はにぎわいを増していきました。

鍬形蕙斎が1803(享和3)年に描いた『江戸名所之絵』。業平あたりの上空から見たような鳥瞰図で、手前の大きな川は隅田川、奥に見えるのは日本橋や江戸城、そして富士山。この肉筆画の複製が東京スカイツリーの展望台に置かれている。鍬形蕙斎画『江戸名所之絵(江戸鳥瞰図)』江戸東京博物館所蔵

明治維新による武家階級の消滅にしたがい、墨田区内の武家屋敷もなくなりました。その跡地に入ってきたのが、今の「ものづくりのまち」の原点となった多種多様な町工場や職人でした。

水運を利用できる本所エリアは、工場にとってはまたとない好立地。なかでも製造工程で水を大量に使用する油脂やガラス、紡績、鉄鋼、革なめし業などの工場が立ち並び、次第に工業地域として発展していきます。

創業開始当時の鐘淵紡績。出典:新撰東京名所図会』(東洋堂)の絵図

1887(明治20) 年にはカネボウの前身である鐘淵紡績が鐘ヶ淵で創立。1892年には精工舎が本所石原町で掛け時計の生産を開始し、1910年には向島須崎にライオンの前身であるライオン石鹸工場が設立されました。

1894年、現在の総武線の乗り入れを皮切りに次々に交通網が開けると、全国から効率よく物資が運搬できるようになり、一気に近代化が加速。大規模工場の下請けをする町工場も増え、ものづくりの技術の高度化と多様化が進みます。

昭和30年代頃の石けん工場での製品梱包の様子。墨田区立すみだ郷土文化資料館所蔵

しかし 1923(大正12)年の関東大震災が発生。本所区は9割余りが焼失し、死者4 万 8000 人と、東京市全体の8割強を占める大惨事となりました。その後、第二次世界大戦の戦火で墨田区の7割が廃墟と化し、6 万 3000 人の死傷者と 30 万人近い罹災者が出ました。

本所・向島の両区がひとつになり「墨田区」が誕生したのは終戦後まもない1947(昭和22)年のこと。当時の人口はわずか14万人でしたが、やがて焼け野原に住宅や工場が建ち、産業の町として復興の道を歩み始めます。

1953(昭和28)年には工場数が戦前を上回り、昭和30年代の高度経済成長期には飛躍的な発展を遂げます。

昭和50年頃の八広のプレス工場内の様子。墨田区立すみだ郷土文化資料館所蔵

明暦大火という大災害をきっかけに区画整理が進み、近代に入って町工場が集まるエリアとなった墨田区。その後も度重なる災害や戦火に遭いながらも、そのたびに復興し、産業の町として発展を遂げてきました。

それを支えたのは隅田川を源とする「水」の力。東京の中心地のすぐそばに工場地帯があるという「都市型のものづくり」も、墨田区の産業を支えた要因でした。

そして何より、江戸から続く職人の技、ものづくりに対する不屈の情熱が、幾多の苦難を乗り越えて発展する大きな原動力となったのです。それらは今も変わらず、新しい時代の「ものづくりのまち」として歩みを続ける墨田区の基盤となっています。

Profile
小澤 弘Hiromu Ozawa
淑徳大学客員教授 · 江戸東京博物館名誉研究員。調布学園女子短期大学教授を経て、江戸東京博物館都市歴史研究室長 · 教授を 2014 年 3 月まで務める。現在、東京都伝統工芸品産業振興協議会会長、東京国立博物館協力会評議員、国際浮世絵学会常任理事などを務める。著書に『都市図の系譜と江戸』『The KidaiShoran Scroll』など多数。
Cooperation:Hearst Fujingaho
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