ラセッテーなめしが日本と世界を、そして現在と未来をつなぐ
皮から革へ、なめすということ
なめし加工とは、動物の“皮”を“革”へと生まれ変わらせる技術だ。その方法には植物性の“タンニン(渋)なめし”と、金属性の“クロムなめし”というふたつがある。前者は紀元前から行われてきたナチュラルな方法だが加工に時間がかかる。後者は19世紀に発明された化合物を使うことでしなやかで耐久性があり染色しやすい革ができる。
さらには短時間に大量の生産が可能ということもあり、現在世界のなめし革製造において約9割がこのクロムなめしを採用しているという。ところがこのクロム剤は、熱が加わると毒性の高い六価クロムに変質する危険性があり、作業工程で排出されるクロムの排水が水質を汚染してしまうという問題をはらんでいた。
安全安心なラセッテーなめし誕生秘話
山口産業では1990年より、ミモザ・アカシアなどから抽出される植物性タンニンを使った“ラセッテーなめし”を開発。軽やかでやさしい肌触りでありながら強靭さをあわせもつ天然皮革を作り出した。そして2015年、なめし職人の山口明宏さんが三代目を継いだタイミングで、すべての生産をラセッテーなめしへと切り替えることに。
ラセッテーなめし開発の背景には、クロムアレルギーである明宏さんのために独自のレシピを考案した先代の想いもあった。「父に言わせればお前そんなに家業を継ぎたくないのかって(笑)」と冗談めかして語る明宏さんだが、「いつかラセッテーなめしだけにして、クロムなめしを全部やめられたら」という親子の夢がようやく実現した瞬間だった。山口産業の“やさしい革”に関する活動はここから広がりを見せていく。
ラセッテーなめしの技術を世界へ
モンゴルでのプロジェクトが始動
「人にも環境にもやさしいラセッテーなめしの技術で海外と技術提携したいと2013年ごろからずっと言い続けていたんです」と語る山口さんは、2018〜19年にJICA(国際協力機構)を通じてモンゴルにある2社のタンナーと技術提携した。モンゴルでは羊の毛はウール、ヤギの毛はカシミアとして売り、肉は食用に利用。皮はクロムなめしにして、中国やトルコへ安く大量に輸出している。
しかしクロムなめしが盛んな首都ウランバートルでは、クロム排水による健康被害が問題となっていた。そこに白羽の矢が立ったのが山口産業の技術だった。山口さんは生分解して土に返せるラセッテーなめし製法を伝授。この技術の導入は、水質汚染の改善につながった。さらにはモンゴル産の皮革素材のブランド化による廉価取引からの脱却を促し、持続可能な皮革産業への推進力となっている。
MONYプロジェクトとは
こうして出来上がったモンゴル産のやさしい革のすばらしさを日本市場に知ってもらうために発足したのがMONYプロジェクトだ。Mongolの“MON”とYAMAGUCHIの“Y”を合わせて名付けられた。革素材そのままではなく、レザー製品にして持ち込むことで付加価値をつけるためクラウドファンディングを募り、2020年に完成したのがMONYクッションだ。
「羊の皮で作ったラグビーボール形のクッションには、裁断の際に出た端材も綿と一緒に詰め込んであります。そこにはひとつの命を大切に扱うという想いが込められているんです。とてもやわらかな肌触りでしょう? 癒やし効果があるこのクッションはラグビーのフェアプレー精神と重なって、モンゴル大使館をはじめ、多くの著名人や企業の共感を集めました」
完成したクッションは多くの人の想いをのせて長期療養児のもとへと送られた。2022年10月には、モンゴル産のやさしい革でふわっとした触感に仕立てた「ダルハンスエード」も誕生した。「ダルハンて響きがいいでしょう? ウランバートルから180km以上行ったところにある街名なんだけど、ちょうどモンゴルで『職人』ていう意味なんだそうです」。山口さんは今、モンゴルブランド「ダルハンスエード」の優れた品質を日本へ広めていく事業にも取り組み始めている。
動物福祉への配慮という世界基準
未来の革素材としての向き合い方
「ちょうど我々がクロムフリーのラセッテーなめしに切り替えた頃から、フランスのお客様との取引が始まりました。彼らは天然皮革の原料調達に際しても、動物福祉への配慮がなされているか厳しいチェックを行うんです」――この取引を通じて出合ったのが四国にある養豚場だ。
毎月1200枚と生産量は落ちたが、檻の中で身動きできないように閉じ込めるのではなく、清潔な環境でのびのびと育った豚の原皮のみを使用することができるようになった。「動物福祉に配慮した原料を使っているか否かで消費行動を決めることは、今では世界基準ですからね」。山口さんの言葉どおり、そうした姿勢に共感する企業は増えている。国内の大手メーカーも山口産業の顧客であり、他にもいくつかのブランドが取引を希望していることからも、これからの革素材との向き合い方が表れているのではないだろうか。
ハッピー・ピッグ・プロジェクト
ハッピー・ピッグ・プロジェクトは、食肉のためにいただいた貴重な命をその副産物である皮の最後の1枚まで大切に使い切るために自分たちができることを模索している。「私たち人間は豚から享受してるだけで、こちらから何も与えていない。何かできないかということを考えています」と山口さん。
この活動では、すべての豚に幸せを運ぶために、養豚・と畜・流通・加工・消費といったすべての場面の関係者が、少しずつでも豚が過ごしやすい環境に近づけるための勉強会を行っているという。実際に遊び道具を与えたり、音楽を聞かせるなどの方法を試しながら、ストレスフリーの養豚数と豚皮の生産、製品化を2030年までに市場全体の10%に引き上げることが目標だ。
循環型視点でとらえる社会課題
害獣駆除とMATAGIプロジェクト
野生生物による農作物や人への被害を減らすため、駆除される鹿や猪は年間160万頭に及ぶ。人間の都合で奪った命を最後まで無駄なく使い切ることは、社会生活において命をつなぐ大切な意味がある。
「そのため山口産業では、2008年に駆除した獣皮を預かり、革素材にして還すというMATAGIプロジェクトを開始しました」。山口さんは続ける。「2013年の実行委員会化でWEBサイトからの情報発信を始めると、全国から依頼が来るようになり、依頼者は猟師や猟友会、ジビエの加工所、農家、地方の自治体など多岐にわたっています」
2022年現在では、全国で560箇所からの申し込みがあるという。駆除された動物のうちジビエへの利活用は年間10万頭、そのうちMATAGIプロジェクトで革素材にして返還するのは3000枚である。
レザー・サーカスとは
レザー・サーカスは、MATAGIプロジェクトを一歩進め、捕獲からジビエ加工、小売り、消費をつなぐビジネスネットワークとして2017年に発足した。ジビエの需要拡大、利活用推進、原皮の供給元である里山の振興を図り、皮革分野においては革素材の製品化およびブランド化を推進し、新たな消費マーケットを創り出すことが目的だ。循環型でエシカルな点が評価され、同年の東京都世界発信コンペティションでサービス部門特別賞を受賞した。
本格的な始動はこの夏から始まった。6軒のジビエ加工所(アライアンスメンバー)から送られてきた鹿皮を使い、山口産業がなめして、同じ墨田区の牧上商会がスタジアムジャンパーに仕立て、消費者へ届ける取り組みだ。ラセッテーレザーで作られたスタジアムジャンパーは軽くてしなやかで着心地が良い。色も自由に選べ、産地の刻印も入れられる。
スタジアムジャンパー受け取りまでの流れ
2022年9月にはアライアンスメンバーを山口産業に招き、スタジアムジャンパーに必要な一定の基準と品質を満たした原皮のとりかた、保管方法をレクチャーした。第1回受注会は12月を予定しており、そこで注文のあったアライアンスメンバーに原皮代を支払い発注する。その後猟を行い、原皮をとり、なめして製品化するまでには早くても4カ月はかかるという。
山口産業は販売はせず、なめしの工賃のみを受け取るという。また、卸を通さず販売するため市場よりかなり安い価格での購入が可能となっている。
受注会の参加者にはジビエレストランでの食事や工場見学、すみだの観光を楽しめるようなツアーも予定。墨田区のふるさと納税からの受注を想定しており、これをB2Cとすると、原皮の供給元へは3枚の原皮を用意したら1着に仕立てるというB2Bの仕組みも用意した。始まったばかりのレザー・サーカスの認知度を上げるため、まずは著名人に実際に着てもらうことでプロモーションをかけていく計画だ。
レザー・サーカスの意義
山口さんはレザー・サーカスの活動がなぜ大切なのかを次のように話してくれた。
「人間社会がどうしても駆除しなければいけなかった野生動物をまずはジビエできちんと利活用し、皮の利活用につなげることは、金額としては微々たる収入かもしれません。けれども各自でできることをやって、事業を継続することが、命を大切に使い切るという理念を次世代につなげるための大切なモチベーションにもなっているんです」
これから山口産業が目指すもの
なめし工場の小さな博物館
墨田区の産業振興の取り組みのひとつに「すみだ3M(スリーエム)運動」というものがある。それは「小さな博物館」(Museum)、「工房ショップ」(Manufacturing shop)、「マイスター」(Meister)という3つの活動から、ものづくりの文化を育む事業のこと。
山口産業では現在、この「すみだ3M運動」を具現化すべく工場をリニューアル中だ。事務棟の1階には小さな博物館を開館予定。歴史ある建物の中はおしゃれに改装された空間。通路の先に白くてかわいらしい部屋がある。横一面に長く切り取られた窓は、工場を見渡すためのものだ。そこから実際に作業する様子を見学できる。机の上には革ができるまでの工程が展示される予定だ。その最後には完成品として「革童(かっぱ)のノート」が置かれている。
フランスの取引先へ納めた革素材の余った部分を使って特別に製作したもので、上質な革と丁寧な仕事が光る逸品だ。「まずは革裁断して、それから木端(コバ)すきっていう、断面をきれいにしたもの、続いて縫製、完成品という一連の流れが全部見えるようにしようかなと計画中です」と目を輝かせる山口さん。
「僕が革屋の息子ですからね。だから革童なの。素材に限りがあって、あまりたくさん作れないから、ここにいらしていただいた方とふるさと納税してくださった方だけが購入できるようにしたいんだよね」。博物館の上の階はセミナーや展示会のためのスペースだ。特徴ある板張りの床に梁を生かした天井など、昔ながらの建物の構造を存分に活用。温かさとモダンが程よく交じり合う居心地の良い空間となっている。
開かれた工場が伝えたいこと
30年以上前に開発したラセッテーなめし剤は、人にも環境にも動物にも“やさしい革”を生み出した。やさしさの輪は世界に広がり、モンゴルの環境に作用した。天然皮革の原料調達時の動物福祉へも目を向け、いただいた命を大切に使い切るための活動へとつながっていった。
まさに“開かれた工場”である山口産業から発信されることはすべて、“やさしい革”に集約される。動物肥育や自然環境に配慮し、いただいた命を大切に使い切ることで、人と革との持続可能なつながりを考えるのだ。この想いが革にまつわる人々だけではなく、広く一般の消費者にも届くことを山口さんは願っている。
Photo: Sohei Kabe
Edit: Katsuhiko Nishimaki / Hearst Fujingaho