飲食系事業者初の「すみだモダンブルーパートナー」の誕生
「私の前世はコーヒー豆だったんだと思います(笑)。それくらいコーヒーが大好きなんです!」と話す「Un Cafe Sucre」代表、楡井有子さんの笑顔はまぶしいほどに明るい。話しているだけでエネルギーがもらえそうな、ハッピーなオーラをまとった人だ。
「東京に戻りどん底にいた私が、2人の子供をちゃんと育てつつ、働く母の背中を見せたいと、一念発起して飛び込んだコーヒー業界。縁あって開業したのは、焙煎豆と輸入菓子などを扱う小さなコーヒー雑貨の店でした。コーヒーの生豆を焙煎し、豆がふくらんでパチパチと音がすると、コーヒーの香りがふわりと漂ってきます。そのとき、『あ、コーヒーが生まれた!』と感動して以来、今年で26年になりました。今、自信を持って言えるのは、そのときよりももっとコーヒーが好きだということ。私にとってこの仕事は天職だと思っています」
そう話す楡井さんは、このたびコーヒーを軸とした商品開発や人材育成、プロモーション活動などさまざまな取り組みが評価され、2022年度の「すみだモダン」活動認証を受け、飲食系事業者として初めての「すみだモダンブルーパートナー」となった。
楡井さんは卓越した行動力とコミュニケーション能力を持っている。コーヒーが好きで、昼夜を問わず勉強し、技術を磨き、コーヒーを究めていった。自身の経営するロースタリーカフェ「Café Sucré(カフェシュクレ)」から2人の「ジャパン ハンドドリップ チャンピオンシップ(以下JHDC)」の優勝者を輩出したり、商品開発などコーヒーにまつわる多くのプロジェクトで他業種と連携したり、日本初の国内加工によるデカフェを開発したりと、多岐にわたる共創活躍が評価されてのことだ。
楡井さんはこうした活動を、コーヒーを介してさまざまな活動の指揮を執るという意味を込めて「Coffee Conductor “Sumida”」と名付けた。
ハンドドリップチャンピオンを2人も輩出したCafé Sucré
「Café Sucré」は楡井さんが経営していたコーヒー雑貨店が立ち退きの関係で店舗移転を余儀なくされた2004年に、曳舟に開業した。当時としては珍しい、自家焙煎のスペシャリティコーヒーを提供する自家焙煎店だ。
以来、「一杯のコーヒーを、手を抜くことなくお客様に届ける」という使命のもと、高品質の生豆の仕入れからベストな鮮度を保つ保管、香り高く仕上げる焙煎、美味しさを引き出すドリップに至るまで、すべての過程を大切にしながら、心を込めた一杯を届けてきた。
決して安くはないそのコーヒーに、ほかにはない価値を見出した人が、ひとり、またひとりと増えていき、「Café Sucré」は人気の自家焙煎店になっていった。
「お客様のためにちゃんとしたコーヒーを作りたいので、日々スタッフと勉強会をしています。コーヒー豆の状態は毎日違うため、どんなときでもベストな味を提供できるよう、スタッフと毎朝30分以上かけてコーヒーを合わせる時間を設けていました。バリスタが味出しをして、皆でカッピング(テイスティング)をしながら、『本日のコーヒー』や『エスプレッソ』を決めていくのですが、実はこれがすごく大切なことで、うちのスタッフの味覚が育った理由のひとつでもあると思っています。全員で『美味しさの共有』をするので、弊社のバリスタになった子は自分でも気づかないうちに味覚がどんどん育っていったわけです」と楡井さん。
「コーヒーを勉強してきました!と入社してきても、美味しいコーヒーを淹れられるとは限りません。ちゃんとした美味しいものを作るために何をすべきか、それを毎日きちんと実践していくことがすごく大事なことだと思っています」
JHDCのチャンピオンを輩出してからは、チャンピオンになりたいと応募してくる人がとても増えたという。しかし、楡井さんは「うちはチャンピオンを育てる会社ではない」と言う。
「『すべてはお客様のため』なのです。お客様に美味しいコーヒーを提供するためには、しっかりとした技術が必要で、それがハイクオリティな技術を持ったプロフェッショナルを育てることにつながっていったのです」と語る。
今年は「シュクレ塾卒業生」による自家焙煎店の開店ラッシュ
しかし、せっかく美味しいコーヒーを淹れられるようになっても、高い技術を身に付けたスタッフは次々と独立してしまう。
「それはそうですよね。美味しいコーヒーが淹れられて、焙煎ができて、経営のノウハウがわかってくれば、自分でお店を出したくなりますよね。そのジレンマと常に闘っている感じではありますが、人を教育し、育てていくことも私の事業継承だと思っています。今まで独学で学んできた技術や自分の経営ノウハウのすべてを、コーヒーで仕事をしたい人にどんどん継承してもらえたらいいと思っています」
その言葉のとおり、楡井さんは今、「シュクレ塾」というカフェ開業を目指す一般の人に向けた教室も開講している。
「なんとなくコーヒー屋さんをやりたい人はものすごく多いですし、コーヒーのお店を出すだけなら簡単かもしれません。ですが私は20年、30年続くカフェをやってほしいと思っているのです。人生って年齢とともにいろいろなことが起きるわけです。女性だったら結婚したり子供を産んだり。主婦をやりながら事業をするという場合も考えると、自分の未来設計が必要なわけです。もし子供を産むとなったら、その期間はどうやって子育てをしながらお店を運営しますか?親の介護をしなければならなくなったら?とか、お店は賃貸ですか? ローンですか?といった細かいお金のやりくりなど、ひとりひとりの相談に乗っています」
今年はそうして手塩にかけた「シュクレ塾」の卒業生たちの自家焙煎店がオープンラッシュだという。
日本初の国内加工によるデカフェブランドの誕生
楡井さんの会社「Un Cafe Sucre」が世の中を変えた、特筆すべき成果といえば、美味しくて、安心安全なデカフェを誕生させたことだろう。「自分が女性だからこそ、その感性を生かして女性が欲しいコーヒーを提案できないか」と日頃から考えていたという楡井さん。自身が妊婦だったころ、コーヒーを飲みたくても我慢せざるを得なかったことを思い出すと、デカフェの必要性に改めて気づいたという。
「それで、日本で売られていたデカフェを調べてみることにしたのです。当時はコーヒーの品種が不明だったり、カフェインの取り除き方がはっきりと辿れなかったりしました。妊婦が飲むものなのに、本当に安全と言い切れないグレーな部分がとても多かったんです」
楡井さんは次に、世界で売られているさまざまなデカフェを取り寄せて調査を始めた。
「その結果、日本では輸入許可されていない物質を使用して作られたデカフェも、海外では普通に販売されていることがわかりました。そうなれば知らずに海外で買ってきて飲んでしまう人も出てきます。輸入されているデカフェも当時は製造方法の表示が義務化されていなかったため、安全性は確保されていませんでした。そして何より、美味しくないという理由でデカフェを飲む人がとても少なかったのです。どうしたら美味しいデカフェを作れるのか、私の研究が始まりました」
そのころ(2014年)、墨田区がデザイナーとの協働プロジェクトとして「すみだものづくりコラボレーション事業」を募集しており、「Un Cafe Sucre」もこれに参加することになった。
「そこで『スタイルY2インターナショナル』の有井ゆまさん、ユカさん姉妹との出会いがありました。一過性の商品開発ではなく、事業の核となるようなものを作りましょうと相談していたとき、デカフェを積極的にやっていきたいと伝えました。時を同じくして、製造方法にも透明性があり、かつ美味しいデカフェを扱えることになりました。有井さんに伝えると、コンセプトやデザインといったブランディングをともに考えてくださったのです。そうして『Un Cafe Sucre』が手がけるデカフェブランド『innocent coffee』が誕生しました」
スペシャリティコーヒーの風味を損なわない奇跡のデカフェ
2015年には国内でデカフェ加工の研究を行っている「超臨界技術センター」との出合いがあった。ここではすべての工程で有機溶媒(薬品)を使うことなくカフェインの抽出作業が行われる。超臨界二酸化炭素と水のみでの除去にこだわったデカフェ処理で、豆の中のカフェインを0.04パーセント以下まで取り除く。
同社はなおかつ、スペシャルティーコーヒーの風味を損なわない独自の方法も開発し、香りも味も遜色ないものに仕上げることを可能にした。「デカフェは美味しくないもの」という先入観を覆す、画期的な技術だ。
併せて「Un Cafe Sucre」がデカフェで扱う豆もJASの有機認証も受けることができたため、文字どおりの安心安全を確保できた。ここに、日本発の価値ある高品質なデカフェ「innocent coffee」が誕生したのだ。
「『デカフェに需要はあるのか』と問われるたび、私は『あります。私が売ります』と答えてきました。国内加工の当社のデカフェは本当に美味しく、心の底から皆さんに飲んでいただきたいものだからです。あるとき、病気で2年ほどコーヒーを飲んでいなかった方が、弊社のデカフェを飲んで『こんなに美味しいコーヒーを飲むのは久しぶりです』ととても喜んでくださいました。私はその方の笑顔が今も心に残っています。『innocent coffee』はひとりでも多くの方に笑顔になってもらえるように、美味しいデカフェを作っていくことを約束します」と楡井さん。
筆者もこの「innocent coffee」を飲んでみたが、今までのデカフェは何だったのかと思うほど美味しい。デカフェの概念を覆す香りと画期的な味わいは感動ものだった。
「次世代のコーヒーの飲み方に革命を起こすものになると考えています」という楡井さんの自信に満ちた言葉のとおり、「innocent coffee」は今、日本各地から引きも切らずに注文が入る人気商品となっている。
軽井沢に焙煎所を構えることになった理由
現在、「Un Cafe Sucre」の第2の拠点は長野県の軽井沢町にある――それには楡井さんと軽井沢との運命的な出合いがあった。「Un Cafe Sucre」はカフェの運営のほか、卸業も行っている。焙煎は東京都墨田区の曳舟の店舗「Café Sucré」で行い、全国に発送していた。しかし注文は加速度的に増えていき、さばける量は限界、うれしい悲鳴とともに危ない状態が続いていた。さらに大きな焙煎機と、それを稼働させられるだけの広い場所の確保が急務だった。
「墨田区から出ることは考えられなかったので2年近く探していたのですが、なかなか条件が合わず見つからなかったのです」と楡井さん。
2015年6月、長野の食材を東京に卸している知り合いから軽井沢に良い物件があると声をかけてもらい、とりあえず見に行くことになった。中軽井沢駅から車で約5分の場所にある物件は、もとベーカリー兼カフェとして使われていた、雰囲気の良いログハウスだった。楡井さんは周囲の環境に配慮し、消煙機の設置ができる高い天井があることを条件にしていた。この物件なら10㎏の焙煎機も置けるし天井高も申し分なかった。しかし駐車場を入れて500坪の物件だ。楡井さんは果たして身の丈に合うのだろうかと悩んだ。
「軽井沢は自分が元気のないときに来て、自然のなかでコーヒーを飲むことで癒やしてもらえる大好きな町でした。その日は雲ひとつない晴天で、物件の周りには東京ではあまり見ることのない、楡の木が立っていたんです。私の苗字でもある楡の木を見たとき、これは運命だと感じました。今度は私がお客様を迎え入れて、元気にしてあげたいと、焙煎所を移す決心をしたのです」
こうして同年11月、「焙煎工房 軽井沢焙煎所 cafe-sucre & innocent coffee」がオープンし、日々極上のコーヒー豆を生み出している。
軽井沢と墨田をつなぐイベント「すみかるテラス」
「軽井沢に拠点ができて、よく『楡井さんは、墨田を捨てた』とからかわれることがあるのですが(笑)、決してそんなことはないんですよ!」と楡井さん。
その一例が2022年から始まった、8月開催の「すみかるテラス」だ。“墨田と軽井沢に光を照らす”という意味を込めて名付けたこのイベントは、「食とモノとカルチャーのフェス」という位置づけで、両者の風土と文化が楽しめるようになっている。
軽井沢の豊かな食材を使った墨田の飲食店監修の特別メニューを食べることができる「フードマルシェ」、ものづくりのまちすみだの「すみだモダン」認証商品を実際に手に取ることができる「モノマルシェ」。「カルチャーマルシェ」では軽井沢ならではの犬用グッズやもぎたて野菜、果物の販売があり、墨田区からは向島の半玉さんによるおもてなしイベントや、コーヒーフェスを開催といった盛りだくさんの内容だ。
2023年度は、軽井沢観光協会が後援、墨田区観光協会がコーディネート協力をし、参加企業も75社を超えるなど大幅にスケールアップした。これだけの規模になった感想を楡井さんに伺うと、うれしいというよりは、せっかく参加してくださった企業の商品が売れなかったら、迷惑をかけてしまったらという思いのほうが大きいという答えが返ってきた。
「あまり知られていない商品も、その良さを知ってもらいたいので展示を並べ替えたりしています。イベント『すみかるテラス』にコラボしてくださった事業者さんが、少しでも多くの方と出会えるチャンスを作れたら。私たちのできることは微々たるものですが、ほんの少しでも皆様のプラスになってほしいと思っています」
大盛り上がりのハンドドリップ大会
楡井さんの「コーヒーをもっと楽しんでもらいたい」という思いから、コーヒーフェスには、さまざまな体験が用意された。墨田区内のカフェが日替わりで出展し、ラテアートの指南を受けられたり、手網み焙煎で実際に豆を煎ったり、自分だけのブレンドコーヒーを作ったりと、楽しみ方はさまざまだ。
目玉はビギナーズハンドドリップ大会。今年は腕に自信のある人から全くの未経験者まで23名が参加。6チームに分かれて対戦し各チームの優勝者が決勝に進むという方式が採られた。はじめに、実際のハンドドリップ大会のように大会の趣旨が語られる。支給される豆とルールが発表され、競技に使う器具を自ら選んでの競技開始だ。とはいえ堅苦しい空気ではなく、配布された淹れ方のレシピを参考にしたり、同グループに入ってくれたプロの淹れ方を見たりすれば決してできないことはない。司会者が盛り上げてくれるので、和やかで楽しい雰囲気のなか、ハンドドリップを体験できるという仕掛けだ。
見よう見まねでそっとお湯を注ぎ、コーヒーを蒸らすために30秒待ってみる。さらにゆっくりとお湯を注ぐとコーヒーの気泡がむくむくと上がってはじける。そのとき心地よいアロマが立ち上る。
「この香りを存分に楽しめるのは、ハンドドリップの醍醐味ですね」と司会者。あたりにはコーヒーの香りが満ち、見学者も笑顔で見守っている。
そうやって丁寧に淹れたコーヒーの味は自分が淹れたとは信じられないくらい、まろやかで美味しかった。
審査はブラインド方式で行われ、単純に美味しかった人が入賞だ。結果発表の際には、自分の淹れたコーヒーについて楡井さんから丁寧な感想や、もっと美味しく淹れるためのアドバイスがもらえる。終わるころにはコーヒーがもっと好きになっている自分に気づくのだ。
Coffee Conductor “Sumida”として、皆が学べるコーヒーの拠点を作りたい
エネルギッシュな楡井さんの周りには笑顔が絶えない。その原動力は何なのだろう。楡井さんに尋ねると、答えは明快だった。
「それはお客様からの『ありがとう』という言葉なんです。落ち込んだりくよくよしたときに、お客様から頂く言葉は何にも代えられないもの。それがすべての原動力になって、『また美味しいコーヒーを作ろう』とか『もっと美味しいコーヒーを作りたい』と強く思います。そのために『自分には何ができるだろう、何をしたらよいのだろう』と考えるのです。それがコーヒー器具の監修だったり、美味しいものを作ったりというすべての活動につながっていきます」
せっかく「Coffee Conductor “Sumida”」で「すみだモダン」の認証を受けたのだから、自家焙煎のコーヒーショップという存在からもう一段進んで、コーヒーコンダクターとしての「Un Cafe Sucre」を墨田でやってみたいと楡井さん。
「私は『墨田をコーヒーの街にしましょう』と20年前から言っていますが、ようやく墨田区に届いている感じがします(笑)。食もものづくりなんです。飲食業に携わる方たちにも、光が当たるきっかけの場を作りたい。飲食を含めたものづくりに携わる人がもっと気軽に相談したり、コーヒーの勉強ができたりする場所があったらいいなと考えています。そういう意味でも、コーヒーの拠点をぜひ作りたいと思って、今物件を探しているところです」
楡井さんは現在、この夢に向かって着々と準備を進めている。
Photo: Sohei Kabe
Edit: Chiaki Kasuga / Hearst Fujingaho